2019/11/18/Mon
「宝塚が楽しい」と思えなくなったら│私的・宝塚ファンの心得Part3
前回の記事で、「Aを褒めるのにBを下げるのは最低最悪な手口である」と書きました。もちろん私だって舞台の良し悪しについて、あれこれ言うことはあります。
あくまで、気心知れた友だちとのおしゃべりの延長、オフライン限定ですが。
しかし、それを劇場内外などの公の場で口にしたり、ブログやSNSで世界に発信するのとは別問題。
自分の発言を、誰もが見聞きできる場所では言葉を選ぶ必要があります。
>宝塚ファンが決して「してはならないこと」│私的・宝塚ファンの心得Part2
発言には責任を持って
注意すべきはブログやSNSでの発言。
一度ネットに上げた言葉は取り消せません。
手元から削除したつもりでも、第三者によってコピーされたデータやスクショは半永久的にネットの海を漂います。
「何か言われたら消せばいい」「匿名だから大丈夫」は通用しません。
さんざん言い古されたことではありますが…
ネットは気軽に外界とつながれる素晴らしいツールですが、使い方を誤れば身を滅ぼす諸刃の剣と知るべきです。
しかし、過剰に他人の顔色をうかがって、自分の意見を押し殺すのはナンセンス。
あなたは何を言ってもいいのです。
誰も個人の自由な発言を妨げることはできませんし、してはならないのです。
ただし、世の中は一色ではありません。
反対意見も当然あります。
その場合、ろくな反論もせずに元発言を消して「無かったことにする」のは、あまりに無責任。
「批評」とは文字通り、物事の「良し悪し」を論ずること。
発言者にとっての「良し」が他者の「良し」とは限りません。
逆もまたしかり。
確固たる意志のもとに発言したならば、反論には聞く耳を持つ義務があります。
ちょいと突かれたくらいで慌てて取り下げるようでは、元発言、ひいては“発言者たるあなた”の信頼が失われます。
「自由」には「責任」と「義務」が伴うことを忘れてはなりません。
「称賛の皮をかぶった罵倒」の害悪
「行き過ぎた批判」「根も葉もない悪質な噂のバラマキ」といったストレートな悪意。
それ以上に厄介なのが、称賛の皮をかぶった罵倒。
褒めているようで、棘がある。
擁護するようでいて、攻撃している。
心配するふりをして、引きずり下ろす。
虚しい行為です。
「…らしい」「…だそう」「…と言われている」「…と聞いた」
“あくまで伝聞”という形を取る陰湿なケースも。
(…は、たいがいマイナスな内容)
責任逃れの言い訳を盾に、じわじわと悪意を垂れ流し、望む方向に誘導する。
卑しい手口です。
怖ろしいのは、発信者が“自称ファン”である場合。
「良かれ」と思ってやっているなら、それは「ファン」でもなんでもありません。
単なる「害悪」です。
自分の毒におかされないように
ファン(Fan)の語源は「Fanatic」。
“熱狂”の向けどころを誤ってはいけません。
それは単なる“妄執”です。
宝塚は楽しみ、愛でるもの。
なのに「なんだか楽しくない」と感じるようなら、少し距離を置いたほうがいいでしょう。
罵倒や嘲笑に喜びを見出しているなら、話は別ですが…
>私的・宝塚ファンの心得=清く正しく美しく、朗らかに
宝塚に限らず、趣味とは心をくすませるものではなく、輝かせるもの。
深く愛すればこそ、時には物申したくなることもあるかもしれません。
しかし、口を開く前に、送信ボタンを押す前に、一呼吸置いて、その言葉が本当に適切かどうか、考えてみてください。
なにより怖ろしいのは、あなた自身が放った言葉の毒に、自ら染められてしまうこと。
悪意の毒は知らず知らず、人の心を蝕みます。
気づいたときには、もう遅い。
曇った瞳と歪んだ心を通してしか対象(宝塚)を観られなくなる。
一時の激情と引き換えに失うものは大きいのです。
それは「純粋に宝塚を楽しむ心」。
深く関わるほどに、見たくなかった一面が見えてしまうこともあります。
しかし、そちらにばかり意識が向いて、本来の楽しみ方ができなくなるのは、あまりにもったいない。
(見て見ぬ振りをしろと言うのではありません)
初めて宝塚を観たときの気持ちを思い出してください。
ときめき、憧れ、感動…
宝塚を楽しむ気持ち、愛する心を、自ら手放してしまうなんて寂しくありませんか?
いっときの感情に流されて、自分自身を損なうことがありませんように。