2019/03/31/Sun
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ│宝塚は夢まぼろしの如くなり
『霧深きエルベのほとり』の素晴らしさは幕開き。「〽鴎よ 翼にのせてゆけ」の歌声と共に、銀橋に姿を現す紅カール。
ぐーっと物語の世界へ引き込まれます。
ところで「カモメよ~」ならカッコいいのに「スズメよ~」「アヒルよ~」「カラスよ~」がカッコつかないのはなぜ?
「ツバメよ~」は割とイケる?
この違いは何?と考えたところ「“渡り鳥”はカッコよく仕上がる」という結論に達しました。
カール・シュナイダーも港から港へ…の渡り鳥ですもんね。
男は船、女は港。
彼が錨を下ろせる港はあるのか?
観劇意欲が湧く作品タイトルってどんなの?
動物の名前を冠した作品は多くあります。
『ヴェニス、獅子たちの夢』、『黒豹の如く』、『Gato Bonito!!―ガート・ボニート、美しい猫のような男―』etc.
(ネコ科が多い?)
では、鳥は?
真っ先に朝海ひかるさんの『アルバトロス、南へ』が浮かびました。
Albatrusはアホウドリ。
警戒心が薄く、捕まえるのが容易なことから、阿呆と名づけられた渡り鳥。
『アルバトロス、南へ』の意味は想像でしかありませんが…
人を疑うことを知らない純真無垢な鳥が、愚直に、ひたすらまだ見ぬ世界(南)を目指す。
踊って踊って踊り続けたコムさん(朝海)の宝塚人生に重ねたのでしょうか?
男役を「翼あるもの」にたとえるならば。
己の夢または大義のため、愛する人のため、行き着く先は破滅と分かっていても、翼折れるまで羽ばたき続ける一羽の鳥。
「滅びの美学」を体現する男役のイメージにぴったりです。
心惹かれるタイトルであれば、ぐっと観劇意欲がかきたてられるもの。
「観たい」と思える作品名をピックアップしました。
・あの日薔薇一輪
・琥珀色の雨にぬれて
・真紅なる海に祈りを
・たまゆらの記
・白昼の稲妻
簡潔で、“その先”を知りたくなる、ポエティックな余韻が残るものに食指が動きます。
(念のため調べたところ、すべて柴田侑宏先生の作品でした)
(我ながら趣味が一貫している)
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
上記はあくまでタイトルだけの好み。
内容も含めてなら大野拓史先生の『NOBUNAGA<信長> ―下天の夢―』が好きです。
『夢の浮橋』に『一夢庵風流記 前田慶次』と、大野作品には「夢」がつくタイトルが多いですね。
(『一夢庵風流記』は原作通りですが)
「夢」は儚く、おぼろなものの象徴。
『NOBUNAGA』冒頭では信長(龍真咲)が「敦盛」を舞います。
“人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか”
人の世の無常を謳う「敦盛」。
「夢」のキーワードで浮かぶのは、室町時代の歌謡集『閑吟集』の一首。
“何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ”
この場合の「狂う」は、現在で言う「精神に異常をきたす」ではなく、「脇目もふらず何かに熱中する」ことを指します。
拙訳すれば「まじめくさってどうする、人生はひとときの夢、ならば我を忘れて楽しめばいい」といった意味でしょうか。
祖母の蔵書から、この歌を知ったのは小学生の頃。
居直ったような投げやりと裏腹の、不思議な熱っぽさ、爽快感。
意味はおぼろげながら、ずっと心に残る言葉でした。
『閑吟集』が編纂された室町後期は乱世。
明日をも知れぬ命。
ならばこの瞬間、むさぼるように生を味わい尽くそうじゃないか。
“何せうぞ”には諦めとは真逆の、強い生への渇望が感じられます。
現代に置き換えても、仕事、趣味、人…
何かに熱中すること。
それは対象から生きるエネルギーを受け取り、また、自身の命を燃やすことに他なりません。
宝塚の魅力も「夢幻の如く」「一期の夢」。
夢のひとかけらを積み重ねて105年。
好きな生徒さんがいて、好きな組があって、好きな脚本家がいて。
“今の宝塚”を好きでいられることは奇跡なのです。
無理せず、できる範囲で、しかし一心に。
「ただ狂い」たいものですね。