2017/08/26/Sat
舞台のエクスタシー│阿弖流為
数日前の記事で、蝦夷の誇りをかけて身を捨てた阿弖流為(礼真琴)と仲間たちの姿に、寺山修司の一節が重なったことを書きました。“マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや”
命と引き換えにできるほどの、信じるに足る理念を持つ者は幸せなのか?
乳白色の霧に視界を閉ざされ、伸ばした指の先すら定かでない。
進むべき道、目指すべきものが不確かなほど、心細いことはありません。
心身の軸が定まらないような不安、憂鬱、閉塞感。
阿弖流為の物語が胸を打つのは、ひとえに彼らの真っ直ぐさゆえでしょう。
為すべきことを為し、人生を駆け抜けた彼ら。
その迷いなさに清々しさすら覚えます。
もちろん、命は軽々と捨てられていいものではありません。
現実世界で必要以上に死を美化するのはいただけませんが、物語の中ならば話は別。
己の信義のために死をも厭わぬ人物、その潔さには心惹かれます。
散らば花のごとく。
(これも大野先生の作品ですが)散り際の美学にことさら胸打たれるのはなぜでしょう?
舞台という圧縮された時空間の中で、観客は役者の身を借りて、その人生を生きます。
人が社会と切り離されては生きられない存在である以上、実生活を送る上で儘ならぬことは付き物。
ひととき日常から離れて、非現実の物語に身を任せるのも舞台鑑賞の醍醐味でしょう。
不謹慎を承知で申し上げれば、すべてのものから解放される“死”は最高のエクスタシーであるとの言葉もあります。
観客が役者の体を通して味わった喜びも悲しみも怒りも、涙で洗い流され、昇華される。
演劇において、役者の死によって得られるカタルシスが観客に激しい快感をもたらすと言っても良いでしょう。
その恍惚が舞台の感動となって記憶に残るのかもしれません。
“役者と乞食は三日やったらやめられない”と言いますが、観客も三日やったらやめられませんね。
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